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民事裁判と犯罪の抑制力

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投稿日 2007/9/26(水) 午前 1:17

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民事紛争の活性化で刑事犯が抑制できるか?

 私の考えでは、家庭内の問題を含めて家庭、民事紛争の
裁判行為を活性化させること(傍聴を含む)で犯罪行為を
4割ほど減少させる事が可能であるの見方をしています。

 その根拠は、刑事事件に纏わる犯罪の殆どが民事的なる
心情の紛争意識を持っており、それに纏わる点での解消の
場を民事裁判にて解決できれば、又その方法の選択しての
確立や文化的な風習があれば、人間関係ととしての溝等を
埋めれる手段として選択をすることが安易になる・・・。

 しかし逆説で人間関係が悪化するという見方もあって、
些細なことを家庭紛争、民事紛争にて解決しようとして、
こじれてしまい、後に刑事事件に発展すると言う事なども
ありえるのかもしれません。
裁判所側としての原告、被告への配慮
 紛争状態にある原告、被告が法廷手続きを進めてゆくと
言う状態にあって、原告、被告とも法定代理人を立てずに
当人が出廷した場合、国内殆どの裁判所では、廊下にある
長いすに両者が座り待つか、法廷内の傍聴席で待機をする
と言う状態になるのかと思われます。

 そうした環境にあって当事者同士が、その場口論となり
暴力的な紛争に至ってしまったとあっては、本末転倒だ!

 しかし現状では、弁護士を立てて行われる法廷が一般化
されており、経済的に余裕のある人が裁判にも有利である
と言う国内事情に対して、当人訴訟として参加をしている
私としては、裁判所としての真意の姿が屈折している用に
感じている。

 そうした観点で裁判所の存在を日本の国民として快くわ
思っていない状況は、好ましくないとも判断をしています。
国民にとって裁判所の施設的な価値とは?
 国内で公共機関が唯一認めている紛争の場として法廷が
あるのですが、日本の国民の多くが、その存在を敬遠して、
そうした行為を行う人間性は、一般人として良くないとの
判断をしている。

 それは、明らかに国家形成の骨格にもなっている憲法や
法規などに対しての理解力に欠けていると言え、国家にて
抑制をされていると一方的に思い込んでる理解力の無さが
文化的な先進国の国民性として、問われる事にもなります。

 憲法や法によって守られている日常の生活なのですが、
人間関係においては、それ以外に自由を求める修正がある。

・・・自由とは?
 私の知る限り、他人との人間関係における規律を守ると
言う為にあるのが憲法配下の法規であるとも思ってました。

 しかし後になって自己を守る為の法規があることも知る。

 特にそれを感じたのは、道路交通法です。

 深夜に誰にも迷惑のかけないような環境にある公道にて
制限速度一杯に・・・でわなく、二輪車、自動車の性能的
速度の限界に至るような速度や、走行性能的な限界値での
走行を行っても、それが交通違反になるのか?が、自分の
なかで問われていた少年期がありました。

 鳥が空を羽ばたくように、そして獲物を狩るようにと、
地上を舞う行為に自由感を感じていた時期がありましたが
後に「安全運転」そして、単独事故による人体的な損傷を
年と共に考えるようになり『自由の存在と自衛の存在』を
把握するようになりました。

 これは、一般の人にわ理解しにくい物の解釈なのですが
二輪車などでの道路交通法における違反範囲での走行には、
運転者当人が背負うRiskの大きく、危険度が高ければ高い
ほどに、むしろ自由でなくなるのです・・・。

 そこに自衛の法則が成り立ち、自衛をする事で錯覚的に
自由を得たような感覚を得ることとなる。

 何事にもとらわれないような二輪の走行は、法規定にわ
とらわれていないのですが、自然の法則から逃れられない。
物理的な遠心力の範囲を超えれば、曲がり角を曲がる事が
できずに転倒をすることとなり、更にわ人体的な損傷にも
いたる事となる。

 ・・・しかし極めるところ、気象や路面、直感的予測で
危険を回避し、客観的に第三者が見れば自由に舞っている
ように見える行為が実は、自然の法則にわ逆らえない事で
もがいているのだと誰一人として当人を含めて気付かない。

 そして私の知ったのが、少年期に私の求めていた自由が
とっても小さな自由であったことでした。

 只単に、欲望が満たされれば、習得されるべく技能等が
身に付けば人体的な能力として満足だったに過ぎないのだ。
自由と犯罪
 自由と犯罪には、抑圧からの反発と言うものがあって、
その力によって文化的な向上が発生するとも言われている。

 その一例としては、Fashion(ふぁっしょん)などがある。

 人は、個性を持ちたがりつつ、平等でありたいとも思う。
自らが良くする個性は、他人と排他的な能力や環境であり、
恋愛や労働能力としても、そうした欲望により習得された
能力が魅力となることもある。

 そうした不平等な習得された個人の能力によって競われ
文化的な向上が図られるのですが、人間と言う観点では、
人として保護されるべく最低限度の規則が存在をする・・・。

 日本国憲法では、生存権が定められており、その主張に
よって個人の生存が国家により保障をされるのである。

 結果的には、競争に負けても生存権が主張される限りは、
それを権利侵害する行為は、国家でも法的な強制力が無い
限りでは、できない。

 現行の憲法や法律で、定められている規範により保護を
される範疇は、人間個々の理性に委ねられているのですが、
人が行う行為を規制されるのは、個人的に威圧感を感じる
と判断する国民も多く、それわ世界中の誰しもが感じてる
ことでもある。

 規範で定められた事以外が公的な福祉に反しない限りは、
自由であることへの理解すらもできない状況にある。

 そうした意識で個人の自由活動で他人が被害、侵害等を
受けると言った状況によって発生をするのが紛争であり、
犯罪行為などに値する。
結論
 刑事事件での範疇は、他人への侵害、略取、損害などが
中心となっており、それらの犯行における原因の根底には、
民事的な要素による阻害項目が存在をしており、それらに
反発するように犯罪が発生をしている。

 逆に民法の内容を日本の国民が理解をしていないが故に
多くの紛争が発生をしていると言うの状況が現実であって、
そうした状況を改善できるような環境を提供をするのが、
国家の立場でもある。

 現在の「社会倫理や道徳」等に纏わる学習になる公民の
内容が、どの程度に値し、どの時期に学習をするのかが、
問われてもいます。逆に、どの様な時期であっても成人と
なる時期までには、国民の万人が平等に完全理解をするが
求められている。

 そうした環境を、論理的、物理的に改善する意見などを
持っている世代が誰であって、どのように働き掛ければ、
有意義な提案となるのかの手段を把握することも必要です。

 恋人同士で、御互いが真剣に喧嘩をしてしまう事がある。
その場を分かれれば、御互いが『なぜゆえに愛しい人との
真剣に争わなければならないのかと、悩み悲しむ・・・」と
言う事は、良くある話です。

 自らの能力を極めようと自問自答し、自然との調和等を
求め日々に訓練や、練習を行う者にとって心身的に自己と
葛藤することにもなる。

 仮定で法廷にて、原告当人、被告当人、そして裁判官も
当人であるという心境に至るような状況が自己判断と言う
環境にあるのかとも想う。

 過度な自由の追求が他人を侵害し、自己までの生命をも
侵害してしまうことがある。それらを抑制する為にも、
民事裁判などによって、相手の存在を確認しつつ、自己の
存在の確認をする場が求められると、考えている。