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No.96 3.義務教育に関する問題

配信 2006-02-24
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   万<よろずがく>学  2  No.96
       Internet Ombudsman
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作成 2006-01-14
問題 3.義務教育に関する問題
    A.高等教育までの義務教育受講の権利制度
副題 (衆・参)国会議員向けReport 2006.01 配布

 ”ゆとり教育”における逆恍心理作戦は、第一での
段階において、かなり良い反響になっていると評価を
しています。

 これにおける問題には、呼び水がどうしても必要と
されていましたが故に、”ゆとり教育に対して多大な
疑問と不信感を抱かせたことを、私の個人的な存在を
踏まえて御詫び申しあげます。

 文頭から義務教育における比較の的(まと)を既に
世界へと広げまして考えるならば、中華人民共和国の
発展以上に国民的規模で発展が予測され、更に期待を
されているのがIndia(インド)でわないでしょうか?

 私の知る内容では、近年のIndia国の経済的発展や、
学樹的な発展は、過去の日本国による経済的発展等を
はるかに上回る情況にあり、India国民自体の人材的
価値観は、世界規模で求められている状況にあります。

 日本国を初めとする世界でのComputerを中心とした
開発事業にIndia系の人材が居ないのがおかしい位と
言うほどに、その能力が世界的に認められています。

 そうしたIndiaの優秀なる人材の生産を追求すれば、
数学や物理に関する思考や遊び(GameやPlay)などが
とても発展しているのですが、文化的向上に対してわ
国家全体として遅く進んでいるようです。

 こうした文化的現象を追求することも面白いのかも
しれまぜんが、それ以前に世界的に認められるような
人材を育成してると言う着眼点に焦点を置き、今後の
日本国の義務教育発展の材料にして頂きたいと思う。

 Indiaでわ既に御存知のとうり高校迄が義務教育で、
特に数学や物理、それ以外にも化学的最先端の部分を
補うような学問に対して、義務教育の段階から基礎の
学習を徹底しているそうです。

 これに対して日本国では、”ゆとり教育”と言った
日本国民への反動的学欲向上政策を行い、現状にての
日本国内での義務教育事情は、子供自身に至るまでの
学習意欲への不満を抱いています。そして今期になり。
学欲的不満を徐々に満たすべく政策を打ち出す必要が
あると判断しています。

 戦後による日本国の義務境域では、主たる目的は、
「自らの生活(家庭)を養って行く為の糧となる学術」
と言った判断を日本国民の一般大衆が判断しており、
自らが持っている能力で、その後の生活を凌げる等と
判断している場合においては、学校などよりも働く!
と豪語する子供や、親達が義務教育よりも働くことを
勧めたり、促したりする現象が生じていました。

 これは、貧困地における基礎学力向上計画の結果に
似たような現象が生じており、学習における意味合が
授学する者にとって有益であると言う理解能力などに
欠けている情況にて発生をしています。

 つまり、”学ぶ”と言うことへの有益性を事前的に
”すりこみ”をしなければなりませんでした。それを
学術的な表現では、”説得”だと表していましたが、
私にしてみれば、万人に理解をして貰う為の話し方の
工夫によって、第三鞘の学術的意欲を論理的に刺激し、
学欲の種を受け付けるだけのことである。

 Computer Program (コンピュター プログラム)も
そうですが、その原語の発展は、人間とComputerとの
対話にあって人が開発をしたものです。しかし特定の
能力や理解力をもった人材で無いとComputerに命令を
指示できないのです。

 Computerの原語でも、人間の言語でも、似たような
現象が生じているのかもしれません。Computer分野は、
Computer側に、より一般大衆でも原語と比較し理解が
きるようなProgram形式を開発することにて大衆的な
発展を遂げています。

 これわ対人での意味合ですと日本人である私自身が
異国に行って現地の人と対話をすると言う時に発生を
する現象に似ており、相手国の語学を理解していない
状況下では、双方ともに交流を行うことが困難です。

 しかしComputerの場合には、その相手国となる側に
教育(言語を理解:原語開発)をさせて、私が使用を
している言葉の意味を、理解してしまう。つまりは、
私が相手の原語を学んだのでなく、相手側が学んだと
言うことでCommunication(コミュニケーション)が
成立することが可能となります。

 また原語と言う意味合で現代日本語を追求するなら、
日本国で使用された”昭和”と言う年号が原語として
「中華人民共和国の古典である”書経(しょきょう)”
から引用されており、「世の人、全てが明るく平和で
暮らせるように」との意味が託されていたのですが、
昭和の年号に合わない意味合で外交政策が実効されて
平成を迎えてしまったようです。(昭和元年12月25日)

 さて昭和の歴史を踏まえて平成を迎えたのですが、
過去の結果は、遡り習性をできないのが、この世での
法則であって、それを覆そうとするのが人間の心理で
若返り、蘇りの願望に繋がっているようです。

 今の時代だと仮想空間と言う物は、Computerの中で
緻密に計算をされて、結果を人間に教えてくれますが、
Computerや計算機がなかった時代には、人間の頭脳に
おける”想像”が、仮想空間であって、想像が想像へ
転化する様子が”○○の産みの父”と表現されたのだ
と解釈をしています。

 つまりは、学ぶことの利点と、想像することなどの
楽しさ、想像における不明点は、即座に知的な欲求と
なって、それを満たした時の快楽を理解させると言う
内容を、相手に理解させることが最も重要な点です。

 国会の論議において、討論の末に乱闘になり議長に
大勢の議員が詰め寄ったが、どさくさに紛れ机の上に
乗った女性議員のSkirt(スカート)の中を覗き込むと
言う衝動的心理現象は、現状における真意性よりも、
はるかに男性議員にとって、目の当たりにした女性の
Skirtの中身が知りたいと言う欲求に、打ち消されて
しまった現象の結果でわないでしょうか? と言った
たとえ話でも理解できますように、好奇心としてでの
欲求は、常に強い方に傾いてしまい、好奇心の弱いと
言う物事への関心は、薄れてしまいます。

 現状の日本教育において、義務教育=一般的常識を
踏まえて強制的に授業に参加をすることになっており、
これにおける学力が、後での社会生活において必要と
していることで強要をしてる分部があるが、日本国の
憲法から考えると、あくまでも義務教育が権利であり、
権利を放棄する人がでてきても憲法の効果から見ると
当然となります。

 言葉的には、理解しずらいのですが法的な意味合の
効果として、憲法の配下に各種の法律があり、それの
配下に、条例、命令などがあると私的にわ解釈をして
おります。

<日本国憲法 第二十六条>
 すべて国民は、法律の定めるところにより、それら
能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
 二項  すべて国民は、法律の定めるところにより、
その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。
義務教育は、これを無償とする。

(文面は、私的な口語表現に変えてあります。)

 
 この解釈は、第一項全文にて矛盾が生じてる分部も
(”能力に応じて、ひとしく”と言う点が文法上にて
矛盾をしていると感じてしまう)ありますが、意味と
しては、法律の条件に伴い権利を定義し、第二項にて
法律の下に普通教育(高等教育、大学を含まない)を
子女に受けさせる義務を保護者が負うことを定義して
います。これらを踏まえて、私的に展開するならば、
「日本国民には、教育を受ける権利があるのですが、
法律での条件を満たすか、それ同等の能力によって、
教育を受ける権利が生じるとの条件付」であります。
 更に第二項では、「法的判断にて自分の保護下に
ある子供には、普通教育を受けさせる社会的な責任等
(義務を果たせない場合での責任)を負う」と解釈を
しております。

 その解釈が正しいと言いませんがノストラダムスの
予言文よりわ明確である憲法文面も、それらの解釈に
多種性があるという点では、問題があります。

 つまりComputerの言語理解や貧困地での教育計画の
”すりこみ”でわありませんが、まずこの理解等を
しずらい点を学校や学びの場を提供する側が、相手に
理解をしてもらう為の口述や処分における理解を得る
能力を得なければなりません。

 が・・・。

 ここでの明確になる問題に”普通教育”あります。

 これより本課題の主題に入ります。

 少子化により、一見して教室内の生徒が少なくなり、
義務教育における学校の先生の目など、隅々まで行き
渡るのかと錯覚に陥った国民も、少なくても居るかと
思われます。また、義務教育でわなく私立の小学校や
中学校へと通わせる親も、割合的に増えてきていると
思われますが、いかがでしょうか。

 子供達が義務教育に対して不満を持っているのは、
「権利と”他者からの義務”」の関係による現象です。

 権利は、放棄できますが、”他者からの義務”には、
その責任が後の人生で子供に遡及されてしまいます。
つまりは、保護者に義務があって履行が出来ないとの
状態にあっても、その負担が子供自身に帰ってくると
言うことになる現象が生じ、更に悪いことに義務等を
負っていた責任が、社会効果でわ生じても個人的なる
人生においては、その価値観から逃れてしまうことが
可能であると言う現実です。

 例えば、放任主義の家庭において子供自らの意思で
普通教育の学校への通学を拒否し、それを黙認してる
保護者が居ても、その子供の人生的な結果としては、
直接に損益と関係がある故に保護者よりも深刻であり、
また、それを理解させる能力の無い保護者においては、
その責任すらも負うにも負担に成らない人生観などを
持ち合わせている場合が多く、憲法としてでの効力を
十分に発揮できていない情況にあります。

 しかし”India国家での高等教育迄の義務化”での
社会的人材の育成が世界的にも、現実的に認めないと
言えないほどの成果をあげていることから、日本国も
それにおける見直しが必要と考えています。

 大前提は、高等学校までの義務教育家です。しかし、
その内容には、新たなる改革を必要としているのです。

 小学校の中学年(現行の小学3、4年生)の時期から
単位修得性を導入します。これは、日本国内における
”大学機関の単位取得性度”と似たような形式になり、
必須教科等がありますが、卒業までに修得や回生制限
(入学後、最低限度に取得されるべき学習の単位等を
満たしていない場合には、次の段階での必須の教科を
受講できない)がありますが、それを省いて、卒業の
時期迄に修得すべき単位を基に自分で授業を選択でき、
自分にあった学習にて、効率よく学べる単位収得性の
導入を、小学校の段階で検討して頂きたく思います。

 これにより、その学習的理解が大幅に認められると
言う場合には、Skip(スキップ)学習が行え、事実上
俗に言う”飛び級進学”が可能になり、早い時期から
研究などに参加でき、更に、後の人生で志望の転換が
現状よりも比較的有利に行えます。

 ”青年の挫折”の大きな原因に、失望と失恋がある。
失望の原因は、自らが認める無能力な部分に付いてで
失恋の原因は、相手からの好意的評価と自己満足です。

 戦後の日本国民の風習では、高校を卒業する頃にわ
立派な収益を得れる社会人であり、戦前であるならば
兵隊として、他人を殺したり殺されに行ったりしてた
年頃にも値します。しかし、高度な文化形式を迎えて、
人間自体の平均寿命も延び、人生における転換期等が
発生しやすい状態に至ってますが、それに至っても、
未だなお改善されないのが、憲法に絡む教育問題です。

 保護者は、子供に対して普通教育を受ける義務等が
生じていることが解かっても、どうすれば子供に対し
普通教育を受けることの楽しさを理解してもらうかを
説明する能力に欠けている保護者が数万と居るだけで
なく、それを黙認し、普通教育を理解できていないと
言う人材を排他しつつ、優越感に浸りながら他人との
排他的行為によって、自らの社会的地位を収得維持し、
”平和”を公然と発する輩達がおりますが、明らかに
その人の人生そのものが”平和”と言う文字に対して
矛盾しているでわありませんか。

 我々日本国民が”平和”と言う言葉を発するには、
まずその言葉の発祥に対して感謝をし、それにおける
試行錯誤をするのが本来の姿であるのかと考えてます。

 小学校の中学年から単位制度を導入した場合には、
はじめから個々に差が出来てきますし、不可抗力的に
人の個性が養われてゆきます。しかし集団での生活で
個性が養われても、社会的団体との生活を踏まえての
こととなるので、孤独をもし望んだ場合にわ、集団の
なかで孤独を維持する為の環境を自ら作り出すと言う
特殊な能力が必要になってきます。

 また、その逆に団体的交流の幅を広げようとすると
年齢層に以前よりも拘らず、情報の交換が可能になり、
「日本国における伝統的な”しがらみ”とされる年功
序列形式」を徐々に中和して行くことにもなります。

 これにおける効果は、個性を豊かにするだけでなく
後の人生において早期に他分野への転換が行えるのと
子供ながらに自らの選択(子供による自己責任)にて、
学習を行えることで自己責任能力を養いつつ、個人の
調子に合わせて学習を収得する事で、押し付けられる
といった印象をも中和してゆきます。

 年齢を問わず広い範囲で交流を持て、更に年齢等に
拘らずに学習や論議、情報の交換が行えるようになり、
Communication(コミュニケーション)能力の向上等も
見込まれてきます。

 中学校でわ、学習の他に自由研究などの枠を設けて
学校に頼らずとも、自分の趣味などで自由に研究等を
行えるような知識を養うことを補います。この課題は、
子供の頃の遊びの要素に既に研究、実験等を本能的に
こなして居ると言う現象を踏まえ、そのような行動を
論理的に定義して自覚をさせようと言う試みです。

 これにおける効果は、英語で言うところのDoctorは、
日本語で医者を意味しますが、英語からの意味合だと
本来でわ博士を意味し、医学の立場にある人材には、
常に博学的に研究や実験を必要とされていたからだと
個人的に思い込んでおります。それらの能力を早期に
身に着けていれば、趣味の段階でも研究や実験などを
おこなって、そこから意外な結果や新たなる発見等が
産まれて来るきっかけを作りやすくします。そして、
そうした小規模な実験から今後、世界中の人が関心を
するほどの発見が生まれるような現実を導き出すのが
国家機関における国民へのService業務だと思います。

 さて小学校での単位制学習のみw取上げましたが、
それにおける以降の学年の内容は、必然的に決まって
来るのかと思われますので、これにて終結します。

 義務教育で比較的に公共機関が重要視をしてないと
言う部分に”学校給食”が有ります。この分野では、
実際に”御弁当制度”を行っている地域の主婦などに
意見を聞いたり、現状における学校給食などの事情を
色々な伝で聞きました。

 「結論としては、給食費を国が負担する」と言った
結果がでました。

 理由としては、

<利点、改善点>
1.経済的な貧富の差
 経済的貧富における状況下での団体生活の食事は、
 時に排他的行為や排除行為の原因ともされます。

2.お弁当でわ平等で無い
 御弁当を作ると言う事は、各家庭の御母さんによる
 御弁当作成能力にも影響が出てきますし、おかずに
 よっては、差が出てくるのが当然であります。

3.コンビニ弁当
 現代的な現象として、お金を渡して弁当を購入して
 食事を済ます方法等が発生しており、栄養が偏って
 しまう原因となっています。

<不利、保守点>

1.税金としての負担が拡大する
 これにおける分部の観点ですが「義務教育を受ける
 子供達は、日本の宝である」と言うことを念頭にし、
 それこそ税金にて養うべき分野である。

2.持病における食事制限
 近年では、Allergy(アレルギー)における対処から
 食事の制限を強いられてる子供が多く居るようです。
 これにおける対応を特例として、”家庭弁当”にと
 個体的に可能かがとわれます。

3.好き嫌いの対応
 必然的に担任の教師が、食事における指導も担うと
 言うことになりますが、どこまで可能かが問われる。

<総論>
  近年は、共働きが多く、早朝における弁当などの
 手間は、家庭における時間での負担となってる事が
 多いようです。しかし働きつつも弁当を作ると言う
 家族思いの家庭もあったり、コンビニ等での販売の
 弁当で賄う場合もでて来ます。

  しかし、本課題における主題は、”平等”となり
 「誰しもが平等に、分け与えてもらう食事」には、
 国家が責任を持って保障すべきであって、未だ自ら
 経済的に豊かでない家庭に生まれて来た事に理解を
 できない子供達が、それらを理由に排他や排除的な
 集団心理の義税になると言う点では、平等さに欠け
 後の人生で、暴力団や心情的病の原因となるような
 環境を、不平等な情況でわ温床してる事に値します。

  よって義務教育における昼食は”給食が好ましく
 学習に伴う集団性活の中では、食事をも平等”にて
 分け与えてもらうことが重要だと考えています。

  私達は、未然に将来の暴力団や悪党、犯罪者等を
 事前に防ぐべく環境を子供達に与えなければならず、
 又それが出来るのは、国家機関などの公共機関等に
 限られております。

  但し、これにおける子供へ税的負担をどうやって
 補うかと言う点に関しては、それこそ国民投票にて
 ”新規・学習税”なるものの徴収を行えるかとも、
 浅はかながら考えています。

 以上、義務教育における単位制度の導入と、給食に
関するReportでした。
 

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☆ 笑いの電動コケ師達 ☆(天使と悪魔の囁き)

万学2的、義務教育に関する問題

天使 義務教育は、国家の文化的発展に重要な物だ!

悪魔 義務教育の機能が低下すれば悲劇惨劇も増える。

◇多くの人を笑わせることを追求◇
コケ師達(応募者)による内容を募集!
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