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Report No.02 死刑囚の存在を、どう思うか?

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投稿日 2008/9/11(木) 午後 6:02

死刑囚とは?

 死刑が確定をして、刑の執行を待つ者である。

 日本国では、三審制の原理から原告、被告の
関係にて第一審の判決から、その決定に不服が
あると言う場合には、控訴ができる。

 その制度によって最終的に下された審議にと
基づいて下された決定にて『死刑』を下されて、
刑の執行を待つ者を、死刑囚と言う。

死刑囚による罪の償いと、他の刑罰者との違い

 死刑囚は、死刑が執行されることで、それに
纏わる刑罰を受ける事と成る。

 その他の刑罰などでは、罰金や服役などにて、
その刑罰を受ける事と成る。

 逆に死刑囚は、死刑が執行される迄の期間を、
刑務所で過ごすことが無いとされている。

 基本的に拘置所にて身柄を保護されると言う
程度に、刑が執行をされる迄を過ごす事となる。

 その間の経費を国が持つ事となり、ある意味で
『死刑囚を養っている』と解釈される。

 現状においては、平成20年09月11日での
死刑の執行にて102人が、死刑囚となっている。

 死刑囚一人に対して必要とされる費用などは、
私の計算だと、最低でも200万円程度必要にと
なるのかと想われる。

 つまり『200万円×102人=2億400万』
と言う費用を、国が死刑囚の為に消費をしている。

 その結果を被害者との観点で比較するならば、
明らかに、死刑に値する殺人行為を行った方が、
経済的な観点などからでも、有益である事などが
明確になり、それを立証しているのが司法機関に
なるのである。

冤罪

 これは、重要な課題となっている。

 大きく二つに分けられ、代理冤罪、誤認冤罪と
なる。

代理冤罪>

 これは、死刑囚に限らず、実行犯に成り代わり
刑に服する人員を意味する。

 その範疇に死刑囚も含まれ、司法での駆引きで、
そうした冤罪者死刑にすることは、世間論として
「冤罪と言う行為に対して死刑は、重すぎる」と
判断をされる事が解っている。

 また、死刑における冤罪の利点は、そうした、
世間的評価との駆引きを悪用して、生じる現象で
あって、特定の人員を脅迫してなりたつも言われ、
それに公務員が関与をしているとの可能性なども
事件によっては、あることが想像できる。

誤認冤罪>

 これは、単に検察側(つまり公的機関)による
誤認によって生じる。

 しかし三審制の観点によって、審議をされたと
される結果は、基本的に覆される事が無い。

なぜ期限が過ぎても刑が執行をされないのか?

 色々な理由があるらしいのですが、基本的には、
法務大臣の最終判断に委ねられる事と成っている。

 そこで疑問が生じるのである!

 既に確定した死刑と刑罰に付いて、裁判所では、
一般の刑事事件に対して刑罰を決めることなどが
できても、刑を執行するようにとまで定めるとの
権限は、その朝廷内での決定に含まれない。

 つまり刑罰を執行するか否なかは、行政による
行為であり、客観的に責める所では、行政裁判の
範疇となる。

 よって死刑囚の被害者とされる人達が好ましく
ない公的機関の人員等に、刑の執行を申し出ても
基本的に受け入れられる事が無く、真意にそれを
必要とするならば、行政裁判にて争うことなどが
求められる。

 さて『冤罪』や『皇室からの温情』などにより、
刑を免れる事もあると言う事実や、犯罪組織から
報復をされる事を免れたい故に、刑の執行を延期
すると同時に、終身形的な対処をする場合がある。

 しかし、その理由が『報復や冤罪』を避けると
言う観点に至る場合には、只単に検察による事件
追求能力と、それに伴う危険性からの回避能力が
無いと言う期間的な欠点に原因があることからも、
「司法の欠点を補う為に、犯罪者を温情するとの
理由には、至らない。又、死刑囚に対して皇室が
温情を受ける、また請求される行為状況なども、
一般の日本国民の一人として理解できない」との
意見までが、私による現状での考えである。

 こうした観点からも、犯罪における有益性等を
立証しているのは、むしろ司法(つまり国)だと
言う事が解る。

結論

 現行における司法機関の事件における追跡能力、
捜査能力、犯罪者における行為の無益化などでの
観点から、総合的に一人の国民としては、一般の
民間企業よりも、Complianceの観点が低いと言う
ことが解っている。

 何の為に、司法試験があるのか、全くに理解を
できないと言うのが、現状での私の意見であって、
『談合』などが無くならない理由の背景などには、
『それを仕切ることによって生じる利益などが、
国で定めた内容を上回る』こと等が解っており、
検挙されても、その犯罪内容と比較して経済的な
利益が大きいことが結果的に解っているが故に、
談合犯罪が現象をしない事が解っている。

 また、暴力団員と言う観点からでない『やくざ』
と言う言葉の意味に、『賭博系と、仲裁者』との
意味合いがある事を理解している人は、少ない。

 私は、過去にTVや公共の放送機関を用いて、
「『やくざ』と呼称するのは、人権侵害に値する」
とReportを必要機関に提出した事がある。

 それ以降において、徐々に『やくざ』と言う
言葉が、使用をされなくなった。

 さて、その例にある『やくざの仲裁的なる
能力』であるが、談合に限らず、仕切り事に等に
関与することが多く、特に喧嘩ごとなどにおいて
暴力沙汰にと発展する場合などでは、積極的にと
仲裁に入る事がある。

 昭和の初期などでは、『やくざ』に限らずとも、
暴力を制する者が、暴力沙汰の仲裁に入ることが
多かったとされており、そうした人物の積極的な
行動は、ある意味で使命や宿命的な意思の基にて
活躍をされていた。

 『やくざ』は、その存在から世間から排他され、
相応の気強さがなければ、生きてゆけない存在で
あった。

 そうした人員が集まると『組』を名乗ることが
多く、江戸の時代だと、『火消し』や『各種での
職人』等にと、身を寄せてゆく事となる。

 そして血の繋がらない人間関係にありながらも、
その家庭で養われて、存続と等しく扱われる。

 『やくざ』による兄弟意識の強さでは、産みの
親と言う意識から否定的な、母父を表すよりは、
兄弟姉妹に例える方が心持好く、親父、御袋との
名称は、実の母親と父親の存在を否定しつつも、
現状の義理の両親を、それ以上に慕っているとの
意思表示なる。

 また私の研究では、NetCafe難民などの存在は、
『やくざ(=本来の意味は、根無し草、風来坊を
意味している)』に値しており、彼らが暴力的な
活動や、無差別犯罪を発生させても、何ら変だと
いえない存在であることは、日本の文化を遡って
考えても解る事である。

 ちなみに西洋で言う、Mafia(まふぃあ)でも
もともと経済協力組織を意味する名称であった。

 私の之までにおける司法の評価は、そうした
『やくざ』による仲裁能力にも劣り、行政での
Serviceと言う観点では、地方公務員にも劣ると
判断をしている。

 尚、死刑囚の存在を評価する以前に、そうした
公共機関の存在意味に対する責任を(つまりは、
行政機関にての責任が最終的に国民に帰属する)、
日本の民にて、どのように改善するのかにより、
死刑囚の存在を考えるよりも、死刑にと値をする
犯罪を減少される事の方が、重要であると理解を
されるのかと想われる。

 死刑囚は、間接的に皆さんとの人間関係により、
発生したと言っても、過言でないと想います。

 皆さんは、死刑囚に対して、どう想われますか?