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John Forbes Nashと、じゃんけん勝負の『ちょき』

Pistol(ピストル)型の『ちょき』を出すような人

 僕が感じる John Forbes Nash(ジョン・フォーブス・ナッシュ)の人物像は、じゃんけん勝負で、Pistol型の『ちょき』を出すような人だと言う印象が有ります。

なぜ?

 皆さんも、じゃんけん勝負をするのかと想われますが、その時に相手が、ぴすとる型の『ちょき』を出されたら、ちょっと困惑するのかと想われます。

 場合によっては、口論と成ったり、相手に異端的(排他的)な意識を抱く事も有るのかと想われます。

 ところが、そんな相手の言い訳を聞いてみると、まことしやかな弁明が返ってくる事で、その知性に嫉妬する(知性をひけらかされた感じ)など、相手の優れた部分を認め難い心境に陥ってしまう人間関係を意味しています。

 つまり John は、天然的に対人との関係(恋人や親族をも含む人間関係)に不具合が生じてしまう性格ですが、それが「他人の思想や考えから現状における自分の精神を守る為に、本能的(自然的、天然的)な対処に基づく人間関係だった」のかと想われます。

彼の精神病は、外圧から内面を破壊されたことが原因だと想う

 彼の生涯を映画や世間で公開をされている情報を基に想像してみれば、「もともと競合相手との共同的な利益を追求する信念が有ったが、それに対して国家側が愛国心や、敵の明確性を人格的に植え付ける工作を行った可能性がある」と想われ、その攻撃で John が精神病質者に成った可能性も疑える。

 一般人が同等の攻撃を受けた場合には、自殺か精神病質者(所属する国家や思想に対して不信感を抱き、それに対して攻撃的に成る心境から、実際に不法、不当な攻撃に着手を行う:反社会的、反政府的、世間不振な心境)に至る事が多いのかとも想われます。

John が受けた攻撃とは?

 地中貫通爆弾(Bunker Buster)の如くに、人の内面(精神)だけを破壊する攻撃で、その外傷や攻撃方法が解り難い事から、周囲の全てが敵に見える事も有り(人間不信に陥る)、過剰に成る(病気として定着する)と生活に支障が生じる。

 ある意味で自分の行動が想い通りに遂行する事を行い難い性格(よく性格的に正確性が求められる作業が苦手な人や、一般的に気が短い、癇癪(かんしゃく:自らの行動が想い通りに成らないと破壊的な行動をするが、それを母性的に解釈すると「子供のような性格である」と解釈される性格)でもあり、気が弱い(気が強くても想い通りに体を反射、行動することが行えない:操り人形の如くに、操作、誘導されてしまう状態:Mind Control 、一種の催眠状態と成っている状態)だったのかと想われ、唯一に妻の思想や信仰が支えに成ったのかと想われるが、その妻にも疑いが有る。

 そうした人の心を攻撃する方法を、『貫通型(身体に外傷なく)心情(志)攻撃 』と自称しており、英語だと『 Mind Bunker Buster (マインド バンカー バスター) 』と呼称している。

 一般的に世界各国の工作員が基本的な攻撃方法として用いているであろう手段と判断しているが、色々と調べたところ一般での恋愛や性的な表現などでも使われている事が解り、例えば女性の服装や男性の外見、貢物など、相手からの違和感を解消しつつ、相手の心境に潜り込んで行く等があり、商品の販売など色々と使われている。

 ちなみに、Bunker Buster とは、地中貫通爆弾を意味しており、人(標的)の外側から内面を破壊する攻撃からの引用である。

 その攻撃を受けた場合には、怒りや憎悪、攻撃性など心情で憤慨しつつ、その思いを解消する為に、「(甲)自らを破壊するか、(乙)他人を他物を破壊(殺傷)するか、(丙)その心境に至る根源を見つけ出すか、見つからない場合に代替物を見つけて、その発生を抑制しようと試みる」ことから、過剰にと反社会的な活動を監視し始めつつ世間的(社会的)な正義感の勇ましさや志にと転化しようと努力する傾向に有る。

 また各宗教の信者や、何だかの思想に基づく同胞者の Mind を Control する時にも用いられ、近年の日本だと、在日外国人に対する憎悪表現(Hate Speech:ヘイトスピーチ)に参加した人達も、『 心中(志)貫通型攻撃 』を受けたような人達が参加していると判断している。

なぜ攻撃を受けたのか?

 まず、米国の基盤は、Freemason(フリーメイソン)が作っているが、そもそも英国から「政治における暴力的な攻撃性、侵略性を除去しつつ、Freemasonの源教を建前とした思想を擁護する為に作られた攻撃型の衛星国で主管が国と異なり、宗教や思想な為に一般人から発見され難い。

 また、Freemason の源教は、平等、博愛、友愛だが、その組織の中に精神病質者も昔から居り、その者達による権力の乱用などによって、不評や陰謀論が絶えないのも現状である。

 ちなみに、Freemason に限らず、どの宗教や思想でも極論は、然程に変わり無いが、それに対して個性を主張したがる事で、適度な対立と競合性に伴う進化も期待されてるが、その競合との部分に紛争があり、大規模な戦争も含まれていると言う部分に留意する必要が有るが、Elite(エリート)の社会的な地位では、一般人よりも生活が擁護されている為に、民(一般人)の被害を「神や正義への犠牲、生贄としつつ、それを成し遂げても『罰が無い(不幸な人生に成らない)』のは、神仏、精霊から認められた行為だから、または、無神論者であっても『世中の仕組みとして正しい事を行ったから』と解釈して、自己の野蛮な行為に伴う、罪悪感を論理的に浄化、正当化する傾向が有る」こと等によって、今日まで人類における世界規模での文化が保たれているのかとも判断する。

 そうした世中の仕組みを把握しつつ、方程式などを用いて解こうとしたのかと想われる John の性格は、何だかの信仰を有する者にも驚異的に感じられていたのかと想われ、それに伴う攻撃だったのかと想われます。

John と同じ攻撃を受けた可能性の有ると想われる有名な人物

・Wolfgang Amadeus Mozar(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)
・Albert Einstein(アルベルト・アインシュタイン)
・Sigmund Freud(ジークムント・フロイト)
・夏目漱石(なつめそうせき)
・その他 芸能人に多く居るのかと想われる

John の最期(さいご)は、夫婦で交通事故

 それが人為的な工作であれ、自然的な事故であっても、人としての生存における危機的な状況から免れられなかった事を意味する。

 その半面で、「仮に不慮の事故で他界しても、名声が永遠に残ると過信していた可能性」もあり、結果的に己の死をも美化していた可能性も疑え、その驕り(おご・り)が事故から免れなかった理由なのかと想われる。

 また、「精神面で幻と成る三人の対話を、精神異常者だから」と世間的に公開したことで、「まるで神仏、精霊の存在を否定したかの如くである!」と判断した信仰心の強い人達が居たであろう事や、有神仏、精霊の論者の解釈だと、「神仏、精霊の加護が無かったか、それ(神仏、精霊からの忠告等が)あっても、それに従わなかった人」として解釈される可能性も有るが、不慮の事故で John が夫婦で他界した事実に変わりない。

 結果的に、''生存(人として産まれ、人間として生活するに至り、その健全性を求めながら幸福な生活を維持しつつ、老衰の後に他界するまで存在を続ける)主義者''である僕にとっては、尊敬をするに値しない人と成った。

幻の三人

 映画の中では、神仏、精霊的な観点とせず、信仰も明確にしておらず、生活にも支障が生じている状況には、人と人間と言う意味での問題で、「自身の志が弱い事が強調されつつ、それを医学(薬など)で克服しようとしたが、治らなかった」ことを表現している。

 仮に、「幻の三人を神仏、精霊に対する供養の概念が有ったならば、苦しまなかった可能性も有る」のかとも想われる。

 実は、世界中の神仏、精霊に関連する概念で『三位一体』が言われているが、結果的に自分の精神面において、自分の考えや欲望と、それに伴う行動性が問われつつ、更に世間性(他者との共存性:他者との利害関係)も問われ、第三者に害が生したり、その可能性が疑われると、周囲から排他(異端の扱いを)される傾向に有るのが、一般人の世間的な事情である。

 つまり、 John が「自分は、霊感が強い。また神仏、精霊などと対話ができる」と判断しつつ、自己の理性を保てれば、特に問題が生じなかったのだろうとも想われ、信仰心の部分が彼の人生を大きく左右したと判断している。

 更に、三人の幻(幻想、幻覚)が生じる場合に、現実的な理性を保ちつつ、それらとの Simulation(シミュレーション:模擬的実験)すらも行えたのかと想われるが、やはり幻と身体が一体(同一)化によって、数学などへの異常的な集中力を発揮していたと想えば、その自覚を John が理解することで幻影を早期に判別する事が行えたのかとも想われる。

 よって、幻想の三人と己の存在を解析(理解、都合よく利用)することで、幻が見えていても自己の精神が自爆的(自らに損失を与えるよう)な行動をさせなかったであろうと想え、現像(幻が見始めた頃)の初期だと、幻が John に食事を勧めたり、少女との会話で気持ちを和ませてくれたり、更に愛国心や正義心を煽られたりするなど、 John に米国人としての志を支える事を、幻の三人が助けていたが、彼女(妻)との恋愛によって、第三者からの抑圧(妻との人間関係)から精神(心情的な欲求)と身体(生理的な欲求)に不和が生じつつ、John が自己の研究成果を重んじた事で、必然的に恋愛心が御座なりに成って、夫婦の生活も成り立たない状態にと陥ったが、 John 自身と妻とが「John は、精神の病気である(つまり、 John が妻に与えていた苦心は、本心からでわなく、病気からであった)と妻と、John と妻が自覚した事によって、それを夫婦で乗り切ろう妻が決意しつつ、努力したのが、現状にだった」のかと想われる。

薬物の乱用も疑える

 もう一つの観点で、『 薬物の乱用 』も疑えるが、当時に米国で覚せい剤が使われていた可能性は、低いのかと想われ、Nazis(ナチス:ドイツ)から等の医療で、自白剤や幻想薬、Heroin(ヘロイン)が用いられた恐れも有る。

 つまり、映画の中で軍事関係の職務に関わったとされる初めの時に、腕に注射を打たれた可能性があって、その時に暗示(催眠術)をかけられた可能性も疑える。

 また映画の中で、食事を行わず、異常な集中力で公式を組み立てる状況は、逆に薬物を用いなくても、それ同等の状態を自然的に身体にと発生させていた可能性があり、それによって脳に支障が生じたとも想える。

 そもそも『食事と思考の関係』を想えば、「本来だと『ぶどう糖』などの摂取が無ければ、脳の機能が低下して意識も朦朧(もうろう)とするはずだが、その時に幻想や幻聴が生じる事も有る」のかと想われる。

 よって、薬物を摂取された可能性や、天然的な異常的集中力で、脳内に支障が生じた可能性があって、その状態が運動で言う Runners High(ランナーズ ハイ) と似た状態に陥りつつ、それの中毒が生じて幻が生じた可能性も疑えるが、やはり軍事の関係からも初期に薬物が投与され、それを John が自覚しておらず、その薬物における中毒が生じていても原因が解らず、後に中毒(依存)性が身体的に抜けても、脳に支障が生じていた(脳的には、薬物依存の状態に陥っていたが、それを補うのに、何が必要かを理解、自覚してなかった)ので、自らの意思で過剰に薬物を求めなかったが、唯一に数学へと集中する事で、ぶどう糖が減りつつ、意識が朦朧と成ることで、「薬物が投与されたのと同じ状態に陥り、それを脳が依存的に求めてしまった(脳が薬物の依存を代替的に求めた結果)が故に、異常な集中力を断続的に生じさせて、自ら意識を朦朧とさせてしまう事に依存が生じた可能性も疑える。(つまり、初めに薬物の投与と催眠術が行われ、それを自身が自覚して無い事から、代替的な依存的の現象として、食事をせず(食欲を抑圧してしまい)、研究へと過剰に集中力することで、脳の機能を自ら低下させて薬物依存の現象を大害的に補おうとするが、その自覚が当人に無く(無意識で行われ)、それが断続することで、脳に支障が生じつつ、治らない状態にまで陥った」のかとも想える。)

John 博士と支配論

 人類における支配論の解析は、数学的に気難しく考える必要は、無いのであって、その解を求めれば求める程に自爆的に難解化する仕掛けに、John 博士も気が付く必要があったが、「それを合気道の精神で乗り切れる事を、彼(John 博士)に伝えられなかった事を、日本人として反省する」に至りて御座候。

 「視点を見つけ出して支点を操作して、相手の力を操作する」、それが支配論の一説であると言うことを・・・。

 彼(John 博士)は、「自らの学力(学術)で支配論を解こうとしたので、『自らが支点と成っている(自分自身が見えてない)事にも気が付かず、力任せ(解析研究への意欲)に追求しても自分が Mosaic化される(心が砕ける度に、その心の欠片を改めて拾い集めて修復する状況が、解析を難解化している)だけで、自己の存在を自然に否定(肉体の疲労を補おうとせず、自己破壊、自己犠牲)的に挑んだ結果が、精神病に(それが他者からの攻撃による影響でも)結びついたのであろう」と想うに至りで御座候。

 それは、単純な次関数で表せる。

 X (X、÷、+、- 等のどれか) Y = 支配論

 X(支配を欲する者、物)が、支点を変化させて(X、÷、+、- 等を用いたりして)、Y(支配される者、物)を操作する それが、支配論。 

あとがき 僕と John の本を通した出会い

 僕が定時制の高校生か、短大生の時に、小学館の SAPIO (サピオ)と言う雑誌の懸賞に応募したら、複数の本を個々に(別々に)当選して貰ったが、その一冊が Alvin Toffler(アルビン トフラー:)の Power Shift(パワーシフト)で、もう一冊が「将来にGAMEの製作者に成ろうと想って、勘違いして購入した『 GAMEの理論 』」であり、その中に Nash(ナッシュ)均衡が紹介されていたのが、僕とJohn との出会いである。

 当時は、Power Shift の影響が強く、『 富と権力、そして暴力 』の三つの概念を学習した事で、僕の人生における 経済活動や行政に対する鑑査活動へと発展しており、特に防犯、対暴力団や犯罪組織の抑制に役立っており、当時に八王子市の市長(当時は、黒須 隆一 殿が市長)と『市長と語ろう』にて、防犯に付いてを論議した時に、『割れ窓理論』も話題と成って、市内の防犯が強化された。(当時には、違法駐車、落書き、覚せい剤の蔓延、重悪事件の多発、風俗街の抑制などが行われ、裁判所の移転や、裁判員制度の導入、法化大学院、自治体に弁護士を雇用させて市民が無料で相談を受けれたりする体制を検討してもらう等を促進して現実化した)

 特に司法の分野で正義感を養うのには、囚人の Dilemma(ジレンマ)を、『 検察官の Dilemma 』と置き換えつつ独学で学習して、防犯の戦略(犯罪が発生する要素を無くす街づくり)に役立てた。

 その当時から、囚人のDilemmaを学んだ後世代と Nash博士を超えろ(つまりは、師匠を世襲的に超えることが弟子の勤めでもあるが、僕が直接的な弟子でわなかったので、本で学んだ者としての立場で彼への敬意として、Nash博士を超える努力をする事を自然的に決意していた時期)と想いながら、経済活動に挑んでいた。

 ちなみに僕は、高校を中退していた10代の頃には、Road Race(二輪車競技)の国内資格を数年の間だけ有しており、天然的に運動神経も一般人より鋭かったのかと想うが、皮肉にも John博士が交通事故で他界した今では、誰にも認めれないかもしれないが、「自己満足的に彼(John博士)を超えた」と想っており、それが学術としてな数学的な解析能力の部分でわなく、人類の一人として、実践的に世間に貢献しつつ、その体験から後に論理化しつつ、日本国の経済性を高めた事を自負しつつ、それが John博士への敬愛心からの事である事は、他の人にも理解されたいと想っている。

 ・・・と想いつつも Nobel Priset(ノーベル賞)が嫌いなので、将来に天皇陛下から勲章を貰える程度を目標に、今後も経済活動を宿命的に続けるのかと想っている。

 なお日本国には、田中洋子(皮肉にも小学校の頃に好きだった女子の名前が、田中陽子だったりするのだが・・・w:後に映画化』もあるので、数学の入門として参考にとされたい。

そして僕の信仰心も煽られた

 平成27年06月01日より、独自的(現状である新道に従うのでわなく、独自で新た)な八百万の神を信仰する事を公にする事を決意した。

 John 博士は、三人の幻だけど、僕の場合だと八百万(やおよろず)の幻を見る可能性が有るのかと少々に怯えていたりするが、相応の覚悟の末に決意した・・・w

 そして、日本国の憲法・前文に習い、その主旨に反する神仏、精霊の存在を確認した場合には、この地上から除去する事も、日本国民の勤めであるのかとも想っている。

 僕は、日本の国民、その一人。

 ・・・から、「全人類の一人」と称する時期を迎えたとも自覚するに至っている。